御祭神

菅原道真公

菅原道真公は承和12年6月25日(845年8月1日)に御誕生なされました。
代々の学者の家系に生まれ、幼い頃から天才ぶりを発揮し、その学才や柔らかな人柄が宇多天皇に認められます。中国の歴史学にも長けているなど、その秀才ぶりは留まるところを知らず、政治の上でも異例の出世を遂げ、55歳の時ついに右大臣に任ぜられます。しかし当時の左大臣藤原時平は、文学や歴史学に優れ、天皇に好かれている道真公をねたみ、更なる政治の独占を企てました。その後、道真公を高く評価する宇多天皇が法王となり、その子である醍醐天皇に政権が移るやいなや、時平は道真公が政治の独占を企てていると天皇に嘯き、裏切られたと怒った天皇は道真公を延喜元年(901年)正月25日に太宰府へ左遷してしまいました。左遷の決まった道真公は、それでも天皇を恨まず京の政治を心配し、

「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

と詠みました。この歌には「私は九州の太宰府へ行ってしまうけれども、東風が吹いたならおまえ(梅の花)の香りと一緒に、都の春(都の様子)を知らせて下さいよ。」という道真公の都を愛する気持ち、政治を心配する気持ち、そして無実の配流の無念などをうかがい知ることができます。時平の策略により、道真公のみならず中央で要職に就いていた菅原一族も散り散りに地方の任に飛ばされ、太宰府への同行を許されたのは幼い子供だけという悲惨さでした。

この一連の左遷劇は、国の支配体制が知識人から武士へと移っていった初めの段階であることを示しており、道真公がちょうどこの時期に、武士の藤原時平と大臣職で肩を並べたことも不運といえましょう。綿密に計画された時平一派のクーデターは、策略を察知した醍醐天皇の母宇多法王をも門前払いにして、見事に成功を収めたのでした。

太宰府の地では太宰権師という役職名はあってもそれを左遷の名目であって、実際の志度とは全く有りません。道真公は太宰府政庁を望む榎木寺にこもり、文人として日々を送るものの都を思う悲しい歌が多く、体は弱っていくばかりでした。毎日、宝満山や天拝山の頂上に登り、ひたすら皇室の安泰と無実の罪が晴れることを天に祈念しつつ、わずか2年後の延喜3年(903年)2月25日に御年59歳にて逝去なされました。

童謡「とうりゃんせ」は一説には道真公の配流を物語っているといわれています。
「行きはよいよい帰りは怖い」というのは、左遷されて行く身は追い出され後押しされるようだけれども、決して都へ帰ることは許させれないのだ、という悲しい意味が歌い込まれているように感じられます。


御神徳の変貌

■ 雷公・火雷天神

北野天神縁起絵巻には、清涼殿に雷神の乗った雲が立ちこめ、驚きと惑う藤原氏に稲妻が襲いかかる図が描かれています。次第に官僚達の間で、冤罪による左遷を強いられ、不運の死を遂げた道真公の祟りだと信じられるようになりました。こうして道真公は、政敵である時平を始めとする藤原一族に対して、怨念をもって復讐するという怨霊神として官僚に恐れられました。
更に、藤原一族や皇族に次々に病死者や発狂者が出たり、また飢饉が相次いで政務どころではなくなったりと社会は乱れに乱れ、ついには道真公の怨念を鎮めるべく、神としてお祀りするに至ったのでした。
神託により天暦元年(947年)に建立された北野天満宮は、永延元年(987年)に初めて国の直轄神社として「北野天満宮天神」の神号が与えられ、国によるお祭りが行われました。

■ 農耕神

雷を起こしたり、飢饉の原因である日照りなどの自然現象を司る荒ぶる神は、農民にとって信仰して鎮めるべき神といえます。また、語り部などによって庶民に道真公の悲運が語り伝えられ、虐げられた庶民の共感を呼びました。当時農耕に欠くことが出来なかった牛との話も広まりました。こうして各地に道真公をお祀りする社や祠が建てられ、農耕神として崇められるようになり、五穀豊穣祈願祭や祈雨祭(=あまごい)、あるいは水害を鎮める祭りが行われるようになりました。
ちなみに町田天満宮秋期例大祭は、天満天神菅原道真公の霊威でありましょうか、気象庁のデータで80%を超える降雨率となっています。当社氏子地域では「雨の天神様」と呼ばれるほど、祭典当日に大雨や台風の直撃を度々受けています。

■ 冤罪を救う神

冤罪による道真公の不運が同情と共感を呼び、雷神として荒れ狂うのは、無実の者を陥れた罪人を懲らしめる正義の神であるとされ、これが転じて冤罪を救済する神、慈悲救済の神として崇められるようになりました。生前の道真公の人柄の柔らかさ、類い稀な学才、数々の功績を良く知る官僚はもとより、武力が台頭しつつある政治に対して反感を抱く庶民に至るまで、雷神となって罪人を懲らしめ、冤罪・汚名を晴らさんとする気運は、清涼殿の落雷事故の直後からすでに高まり始め、これに生前の学才と穏やかな人柄とが相まって、怒り荒れ狂う神から徳の高い温和な神へと急速に変化していったのでした。

■ 学問と書道の神

やがて、生前の文人道真公の秀才ぶりは庶民に広まり、書道でも弘法大師や小野道風と並び称されることから、特に商人層の中で学問の神として崇められるようになりました。また詩人・歌人として名高く、情緒豊かな描写表現の漢詩は、現代語訳したならフランス文学を思われるほどと絶賛されています。室町時代には柿本人麻呂と山部赤人と並んで「和歌三神」と称され、藤原定家も北野天満宮に歌一巻を奉納して、和歌の上達を祈願しています。江戸時代に大阪天満宮では、連歌所で天神講が開かれており、西鶴や近松をはじめとする上方文壇の母体となっています。
歴史上の著名な朱子学者や国学者がこぞって道真公を信仰したことから、学問と天神信仰は一体化し、江戸時代、現在の塾や小学校にあたる寺子屋には、必ず菅公(菅原道真公のこと)を祀った神棚や掛軸があるか、あるいは寺子屋の入り口近くに菅公を祀った社や祠があり、毎朝夕に全員で拝礼をしました。また、祠や筆塚に筆や書を納めたり、毎月25日の縁日には天神講を開いて、学問の成就、読み書きの上達を祈願したのでした。

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