町田天満宮の歴史

創建

社殿

谷保天神などを中心とした武蔵国の天神信仰の流布により、元応年間より菅原道真公をお祀りしていた大沢正純という者が柚木大沢村におり、京都の北野天満宮より戴いた菅原道真公の尊像を家の守り神としてお祀りしていました。子孫七代を経て大沢氏は一色村に移り住む際に、現在の本町田菅原神社の地にその尊像をお祀りし、境内地と社殿を村に寄進したのでした。

かつての本町田は現在の原町田と南大谷も含んでいました。天正10年(1582年)に原町田村が本町田村と分かれて独立しました。分村前までは原町田地区の鎮守は本町田菅原神社であったのですから、分村によって原町田地区には神社がないことになり、住民は心の拠り所を失ってしまいます。当時は農民一揆が各地で起こるなど、農民の領主に対する怒りが鬱積していた時期だけに、それに拍車をかけることになってしまったのでしょう。

当時、この地域を知行していた北条氏輝は、社寺政策によって村民を統治する方法に熱心に取り組んでいました。戦乱の時代をくぐり抜けて原町田の地に移り住んで来た開拓者等(三橋家・武藤家)と話し合い、分村に先駆けて元々古い祠のあったこの地に菅原道真公をお祀りしたと推察されます。
とにかく分村前に御祭神を替えることなく神社をこの地にお祀りすることが、当時の支配階級のとった最善の策であったと思われます。したがって、町田天満宮の起こりは天正年中の1580年前後と推測できるでしょう。
町田は度重なる大火により古い記録がことごとく焼失してしまい。明確な記録は残っていません。この神社の成立についても、町田の歴史資料による推測に留まっています。


町田天満宮の歴史資料

元和元年(1615年) 棟札に「天満天神奉遷宮」とあり、明主 三橋・武藤両家により、社殿造営が為されている。
享和4年(1804年) 『村柄様子書上書』には「村鎮守天満宮社」とあり、天満宮と称されていた事実を物語る。
嘉永6年(1853年) 京都白川殿より「町田天満威徳天神」の社号を賜る。
明治3年(1870年) 『原町田村明細帳』に「氏神菅原大神祭礼の儀、8月24日神輿巡幸。25日神楽斉行」とあり、神輿渡御及び神楽の秦納が行われていたことを伝えている。
明治5年(1872年) 原町田の大火により社殿を焼失。明治27年(1894年)に再建され、境内社として現存。
昭和42年(1967年) 新社殿造営し、現在に至る。

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